just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜



  2012年12月10日(月) DMMと「あるあるYY動画」の生配信が重なって困る
  選挙カー不要論

そもそも議会制民主主義に反対している僕は、選挙そのものを否定しているのだが、現行制度で選挙が行われるという前提に立って考えるなら、少なくとももう少しマシなやり方はあるはずだということをここに書く。

題名はこの通り<選挙カー不要論>だが、選挙のシステム自体をもっと簡素化すべきということの象徴として、選挙カーを取り上げた。

ネット選挙についてはここ数年、特にまさにそのネット上で多数議論されているからここには書かない。
まず最初に書きたいのは、この項の本質から外れることではあるけれど、経済効果優先主義への異論である。
あの悪法のもとに誕生したハッピーマンデーも経済効果云々が謳われているし、選挙に金が掛かるという批判に対しても、選挙自体が経済効果があるという意見もある。
選挙事務所、選挙カー、ウグイス嬢、選挙ポスター等々、お金が掛からないものはない。
それは言い換えれば経済効果だという。
しかし、不要なものを無駄に消費することを経済効果とするのならば、そして、それを経済の活性化と礼賛するのならば、やはり資本主義は滅びればいいと思う。
つまり、選挙における経済効果など不要であり、その労力や資金等は他に回せばよい。

まず、選挙カーでは、<動いている車からは名前の連呼しか出来ない>という規定が公職選挙法で定められているらしい。
これ自体、馬鹿げた法律である。
そんな規定を作るくらいなら、選挙にあらゆる乗り物を使うことを禁止すればいい。
あの連呼が騒音でしかないことは間違いないし、効果などないことも間違いないのに、未だに続いていることが不思議なくらいだ。
そういうことに時間と労力を掛けることを選挙運動とするという発想そのものを転換すべきだ。

選挙ポスターも同様であるが、選挙に金が掛かることの表面的な意味(裏面的な意味はここでは書かない)において、ポスターは製作にも貼って回るのにもお金が掛かる。
このお金は無駄だし、選挙において富める候補者と貧しい候補者の格差が最も顕著に表れるのがポスターだ。
ポスターも廃止にして、役所や役所に準ずる場所に政見放送用にビジョンを常設するとか、それこそネット上に政見放送チャンネルを選挙期間は常設するとか、そういう方法を利用することで個々の候補者の負担も少なくなるし、有権者が情報を得やすくもなるし、候補者の貧富の差や組織力による不平等性が少しは解消される。
だから、逆に、テレビやネットで放送される政党のCMなどは、もちろん禁止されるべきだ。

つまり、選挙期間というのは、候補者は何もしない(何もさせない)というのが理想。
選挙期間というのは、政見放送(テレビ、ネット、各役所のビジョン)や広報を見た有権者がどの候補者に投票するか判断する時間としてだけ存在すればいい。

最後に、もう一度繰り返すが、これはあくまでも現行制度の選挙がこれからも続くという状況での提言であって、僕はそもそも議会制民主主義に反対しているので、選挙自体も廃止すべきだと考えている。


  2012年12月10日(月) 赤羽でラーメンを食べた
  まんま萎え

<ギャップ萌え>という言葉がある。
不良っぽい男子が電車でお年寄りに席を譲るとか、ギャルっぽい女の子が栄養バランスのいいお弁当を手作りしてくるとか、見た目や第一印象とその人の性質がいい方に違っていた場合、そのギャップに惹かれることを言う。
この言葉がいつから巷間に広まったのかは定かではないけれど、気が付けばいつの間にか定着していた。

僕個人は、ギャップに対して萌えることはすごく少ないと思う。
恐らく、そもそもひとりの人間の中にはかなりのフレ幅があるものだと最初から認識しているからかもしれない。
逆に、僕が感じるのは<まんま萎え>の方が多い。
ちなみに、この言葉は<ギャップ萌え>の対義語として僕が編み出した。

つまり、ある人の行動が、その外見や醸し出す雰囲気のままの場合、より一層萎える状況のことを指す。
例えば、夏の夜にコンビニの前でたむろしているやんちゃそうな中高生たちが、空き缶やゴミ袋をそのまま放置して去ったり、工事現場から駅へ向かうニッカボッカ姿の作業員が路上禁煙区域で平気で煙草を吸って、その吸殻を道に捨てていたり、そういう姿を見ると、あまりにも見たまま過ぎて、僕の中で萎える方向にベクトルが伸びる。

これはすごくネガティブな言葉なので、世間的に広まったり定着したりはしないと思いつつも、僕の中では恐らく今後もひとつの概念として存在し続ける言葉だと思う。


  2012年9月22日(土) 妹からもらったシャツを着て、乳首が透ける
  母親とキス

先日、テレビ番組の話を聞いていて、悪い意味で鳥肌が立ったことがある。
その番組では、ドッキリ企画で芸人が母親とキスをしたらしい。
それを自分のことに置き換えて想像してみた時、ゾッとした。

それがたとえ仕事とはいえ、僕は母親とキスするなんて考えられない。
どのくらい嫌かと考えてみたところ、槇原敬之とキスするくらい嫌だ。
つまり最大級に嫌だということ。

ここに文章を書くために、ここ数日間、何故こんなに嫌なのかと考えてみた。
母親に虐待されたこともないし、逆に僕がマザコンでその愛の裏返しで憎いということもない。
母親は特に不潔な訳でもないし、僕が特に潔癖症という訳でもない。
ひとつ言えることは、僕は40代半ばにして今でも反抗期であり、母親が僕のことを好きでいる気持ちに強烈に拒否反応を覚えているということ。
その母親に対してキスをするということは、その一方的な愛に屈服するという屈辱感を覚えるからなのかもしれない。
そう、屈辱的な気分が最大の原因だと思う。

僕は、土下座をすることや女の子にフラれることや自分のうたを認められないことに対しては、さほどの屈辱感を覚えない。
それは自分にとって簡単に乗り越え可能なことだからかもしれない。
しかし、母親にキスをすることに対しては、心の中の踏み込まれたくない領域まで土足で踏み込まれるような、自分という人間の最後の砦を明け渡してしまうような、せっかく開拓した土地がすべて荒地になってしまうような、絶望的な屈辱感を覚える。

この感覚は、みなさんにも共感してもらえるのだろうか?
いや、せめて分かってもらえるのだろうか?


  2012年9月19日(水) AKB48じゃんけん大会の空しい余韻の中
  暴力と報道

ここ連日、尖閣諸島を巡る中国国内でのデモの映像がテレビで流されているのを観る機会があった。
僕の家にはテレビはないものの、食事中の料理店のテレビやインターネットカフェのテレビで。
そこで繰り広げられている<暴力>については、項を改めて書くつもりでいる。
それはそれとして、果たしてこれらの映像は放送すべきなのか、とふと思った。
それは、中国人の暴徒化した様子を隠蔽しようとする中国政府の意図や<愛国無罪>などという馬鹿げたスローガンとは全く別次元で、あらゆる年齢層の人が見ているはずのテレビで、こういう<暴力>が放送されていいのか、という問題である。

映画や出版物等には、R18やR15やPG12などの規制がある。
度合いの違いこそあれ、露骨な性描写や過激な暴力的シーンを子供たちに見せないための事前規制である。
その規制自体の善し悪しの問題もあるだろうし、具体的な影響が統計的に示されているのかという問題もあるだろうけれど、少なくともそういう場面を見たくない、或いは見せたくないという人たちにとっては意味がある規制である。

ところが、今回の中国でのデモと呼ばれる暴動の映像を観る限り、僕の目にはその様子は明らかに<過激な暴力>に映った。
大人の僕でさえ、そして、愛国主義なんてクソクラエと思っている僕でさえ、その暴力に対する嫌悪感で胸苦しくなった。
その映像を観て、報復的な感情を煽られた人もいるだろうし、暴力的な快感を自分も味わいたいと思って人もいるだろうし、中国人に対して嫌悪感を抱いた人もいるだろうというのは容易に想像できる。

それらの映像は、幼い子供たちがいる家庭にも、何の断りもなしに流されている。
「テレビだからチャンネルを変えればいい」という意見は馬鹿げていて、各局横並びの夕方の報道番組の時間帯は、間違いなくどの放送局も同じような映像を流していた。
勿論テレビを切ることも出来るけれど、既に流れ始めた映像はどうしても観てしまう。
これを<報道の自由>という呼び名で片付けてしまううのはどうなのだろうか。

個人的な経験を書くと、かつて日本車がアメリカ市場を席巻した時、デトロイトだかシカゴだかで、車工場をクビになった従業員たちが、その腹いせに日本車をボコボコに破壊する映像を観た記憶がある。
<ジャパン・バッシング>と呼ばれた一連の出来事のひとつである。
それはとても不快な<暴力>だった。
恐らく僕が10代の頃で、その時の映像が今も脳裏に焼き付いている。
それが僕の人生にどう影響しているかは分からないけれど、少なくとも今の子供たちも昨今の<暴力>の映像を観て、何かが刻まれたことは間違いないと思う。

僕はそもそも<報道の自由>なんて大して評価をしていないけれど、なんでもかんでも刺激的な映像を流すことや感情を煽るような映像を流すことが報道の使命ではないということは断言したい。
事実は事実として、暴動が起きて被害が出たことを伝えればいい。
映像の方が直截的であるし、視聴者を刺激し得るという安直な考えで、彼らはこういう映像を選んで垂れ流しているだけだ。
そんなものは報道ではなく、電マと同じである。
刺激主義なのだ。
もしも、どうしてもこういう<暴力>の映像を流すのだとしたら、少なくとも事前に「これから暴力的な場面の映像を流します」との注意喚起があってから、受信者に選択の余地を与えるような最低限のルールは必要だと思う。


  2012年8月26日(日) AKB48東京ドームコンサート最終日に行く
  真心込めて仕度中/心を込めて準備中

<真心込めて仕度中>または<心を込めて準備中>。
以前から、この類の札が店の前に掛かっているのを見て、漠然と違和感を覚えていた。
先日、またこの札を見かけた時、その違和感が具体的な形として理解できた。

この違和感には幾つかの側面がある。
まずひとつ目。
この札を字義通りに受け取ったとして、本当に<真心込めて>いるのか、ということ。
店長、正社員、パートの方、アルバイトの学生なども含めて、全員が<真心込めて>支度しているのか、と問われて、真正面から「YES」と答えられるのか。
そんなことを真面目に問う方が馬鹿だという見方があるのは分かる。
それでも、店の入口にそれを掲げて表明するからには、その言葉に対する責任はあるはず。
しかし、もっと言えば、<真心込めて>と言いつつ、この札を街のあちこちで見かけるということは、明らかに大量生産の品であり、それを買って来て使っている時点で<真心込めて>いる訳がない。
せめて手書きならまだしも、<手書き風>というのが尚更あざとい。

ふたつ目。
たとえば仮に、全従業員が<真心込めて>仕度していたとする。
それを認めたとしても、それを敢えて店の前に掲げて謳うのは、厚かましいのではないか。
<真心込める>のは店側の問題。
それを当然のこととまで言っていいかどうかは別にして、それは店の従業員の中でだけ留めておくべき内容だと僕は思う。
少なくとも<仕度中>や<準備中>には客は店内に入れない訳だし、<真心込める>と表明するなら、<営業中>だけで十分なはず。
ちなみに、この札の裏には大抵<只今、元気に商い中>とか<感謝の気持ちで商い中>とか<一生懸命営業中>とか、やはりどうでもいいことが書かれている。

みっつ目。
<真心込めて>とか<心を込めて>とか言う場合、そこには当然人間がいなくてはいけない。
誰もいない空っぽの店舗自体が、何かひとつの魂を持って<真心込めて>仕度しているなどという怪奇現象でもない限り。
でも、この札が掛かっている時というのは、必ずしも本当の仕度中だけでなく、営業が終わった後の店仕舞いしてしまっている状態の時もある。
その状態で、どうやって<真心込めて>と言うのか。

屁理屈のようなことを書いてきたけど、要は、この<真心込めて>とか<心を込めて>の部分は、甚だしい蛇足だということ。
この札が製作された理由は、恐らく単に<準備中>とか<仕度中>とかだけでは味気ないという意見からだと推測する。
しかし、もっともらしい言葉でお茶を濁そうとしているからこそ、墓穴を掘っているようにしか僕には見えない。
シンプルに<準備中>で充分に伝わるし、もしも店側に本当に誠意なり熱意なりを表明したいという想いがあるなら、多少の手間は掛けても手作りの札を掲げるべきだ。


  2012年7月13日(金) 新しい目覚まし時計が届いた
  エスカレーター不要論

昨今、エスカレーターの片側を空けるべきかどうかとか、そもそもエスカレーターは歩行禁止であるとか(一般社団法人・日本エレベーター協会[以下、協会])、各方面で語られている。
それぞれの言い分があると思うけれど、僕は超原理主義的結論を持っている。
僕の結論はと言うと、まさにこの表題通り、エスカレーターは全面廃止すべき。

僕の基本的な主張に、利便性というのはまず検証されてから取り入れられるべき、というのがある。
多くの方々が語る脱原発も勿論、僕がケータイや車社会にも反対しているのは、ここで僕が主張してきた数々の意見を読んでくださっている方々なら周知の通り。
同様の考え方から、今様々に語られているエスカレーターについて、改めて根本的に捉え直すべき時なのではないかと感じている。

そもそも、エスカレーターの利便性は、<ひとつ上の階に立ち止まったまま行ける>というだけのこと。
この利便性自体、簡単に放棄できる類のものである。
その上、そういう利便性を最も必要としているはずの車椅子での利用も出来ないし、乳母車での利用も危険とされている(これも協会による)。
これでは、この利便性を主張する意味もほとんどない。
<歩ける人が、ただちょっと楽をしたい>ためだけに、エスカレーターは存在しているのだ。
設置面積やコストの問題もあるだろうけれど、エスカレーターを全廃して、その分エレベーターを作った方が、社会全体に資する面は圧倒的に大きいはず。

その逆に、危険性は甚だ大きい。
ピンヒールが挟まる危険もあるし、傘の先が引っ掛かる危険性もあるし、足の不自由な方の杖の先も危険だし、子供が手摺りに挟まれる事故はしばしば起こっているし、歩行しようとしまいと転倒した時に角が金属だから怪我をする可能性はそもそも高いし、雨天運転禁止のところも多くなったけれど、水に濡れたら滑りやすくなり事故の確率も上がる。
蛇足かもしれないけど、クロックス・サンダルが巻き込まれる事故が一時多発したのに対して、エスカレーター側にではなく、クロックス側が問題視されたのも不可解だ(僕は個人的にはあのサンダル自体は支持しないが)。

これだけ危険性が大きいのに、今も各地にこれだけ多くのエスカレーターが存在していることが僕には不思議で仕方ない。
恐らく、業界団体の力や様々な利権があるのだろう。
彼らは、設置だけでなく、その後のメンテナンスでも儲け続ける仕組みを持っている。
規模こそ違えど、原発が廃止一辺倒の議論にならない理由にも似ている。
いや、それどころか、<エスカレーター不要論>なんて唱えているのを僕以外に聞いたことがないことも、原発以上に問題なのかもしれない。

現状の問題点をもう少し掘り下げる。
少なくとも僕が幼い頃は、エスカレーターはデパートや大型スーパーにしかなかった。
つまり、店内をゆっくり見て回る時間的に余裕のある人たちが、ゆっくりと楽をして移動するためにエレベーターは存在していた。
この<ゆっくりと楽をして>というのが、エスカレーター問題を考える上で重要なポイントなのだ。
そして、もうひとつ付け加えるなら、あの当時からエスカレーターの構造や安全性(危険性)はほとんど変化していないというのも、また問題である。
それにも拘らず、その後、エスカレーターは駅のホームと改札口を繋ぐ目的や、大型の歩道橋の上り下りのためや、何のサービスか分からないが、必要もないようなわずかな段数の階段と並行してあらゆる場所に作られるようになった。
そういう場所には、元々<ゆっくりと楽をして>移動したい人たちただけが集まっている訳ではない。
特に、一部の駅のホームでは、場所によってはエスカレーターしか設置されてない乗降口があり、どう考えても混雑時には危険性が増すように仕組まれているとしか思えない。
一分一秒を争うように生きている人たちが通行するそのような場所にエスカレーターを設置しておいて、「歩くな」というのは道具論的に考えてもそもそも無理なのだ。

「このはしわたるべからず」の問答のごとく、「エスカレーターは歩くな」というのは結構。
それなら、その問答には、「歩かないから、その代わりにエスカレーターを一切設置するな」と答えよう。

去年の震災以降、急な停電時の危険性や節電という流れもあって、東京では多くのエスカレーターは止まっていた。
そう、それでも僕たちは充分にやっていけたのだ。
ここに改めて、少数派民族として<エスカレーター全廃>を訴える。


  2012年7月1日(日) 思い立って、サンスベリアを買った
  お金の未来〜やれやれ、資本主義〜

大上段に構えて、<資本主義>について語るには、僕には足りないものが多過ぎるのは自覚している。
僕がこの場所で何かを語ったところで、大した影響力がないのも承知している。
それでも、考えずにはいられないし、語らずにはいられない。
それは多分、<資本主義>というものを自分自身も罹患している病のように感じているから、と言ったらこれまた大袈裟か。
それでも、これは間違いなく人類のひとつの病巣には違いない。
その根幹部分にある、お金について。

<お金の未来>について自分の考えを書こうと思い立ち、誰かが似たようなことを書いていないかと、ネット上で<お金の未来>という言葉を検索した。
すると、ほとんど同じような未来図を、全く別の角度から書いてあるのを見つけた。
僕が思いついたこと自体、目新しいことではなく、大切なのは方向性だと思っていたのだが、別の角度からの発想は新鮮だった。
これについては後で述べる。

僕が考えているのは、今の段階では<お金>を無力化するものではなく、<お金>の絶対的統制とでも呼べるものかもしれない。
それは、物質としての<お金>を全世界から廃絶することである。
つまり、<お金>をすべて電子化することである。

僕は、勿論このことを資本主義的メリットの面から語っている訳ではない。
これが<お金>というものの弱体化、もしくは金持ちというものの廃絶にメリットがあるという風に考えているのだが、実は諸刃の刃で、真逆の方向性にも進み得るということにも現時点で気付いている。
それでも敢えて書く。

現在でも電子マネーは広く使われている。
でも、それは単純に現金との等価交換性において存在しているだけのことである。
そうではなく、貨幣や紙幣をやめて、すべてを電子化するのだ。

その意味やメリットについて。
すごく単純に言って、<お金を落とす>や<お金を失くす>や逆に<お金を拾う>や<お金を盗む>ということがなくなる。
僕がイメージしているのは、お財布ケータイや暗証番号付カードなどではなく、どんな形であれ生体認証。
正直言って、現在の技術がどこまで進んでいるのかよく分からないが、完全な個体識別は不可能ではないはず。
その場合、誘拐などの危険性が増すかもしれないというデメリットは課題になるが。

すべての<お金>を電子化することによって、お金の流通の透明度が圧倒的に増すはずである。
これが僕が最大のメリットとして考えている点。
裏金というのは、現実的に存在しなくなる。
それでも、何らかの形のマネーロンダリングは存在するのかもしれないが、すべての<お金>がある種の機関(国家か国際機関かは別として)の管理下に置かれる訳で、支払いの停止や資産の凍結は簡単にできるようになる。
それは犯罪の抑制に繋がると僕は見ている。
脱税は難しくなるだろうし、逆に徴税はより簡単になるはず。

ここで問題になるのが、その場合により不平等な税制による圧迫も可能になるし、逆に、金持ちを無くすような税制も簡単になるということ。
つまり、これを実現する時は、同時に政治体制も問題になる。

僕は、ユーロなどという地域限定通貨ではなく、世界統一通貨(最早それは通貨とは呼べないが)としての電子マネーを意識している。
そうすれば、為替などというものは不要になる。
各地域のデフレやインフレに対応しきれないというデメリットが想定されるが、逆に、統一通貨としての電子マネーが新しい枠組みの経済の在り方を提示すると思う。
どこかの地域(国)を潰して、他の地域(国)が利鞘を取るというような枠組みの向こう側に。
つまり、資本主義の向こう側に。

先程後述すると述べた別の角度。
それは、銀行やクレジット会社を介することのない流通としての電子マネー。
つまり、支払いにクレジット会社を介することによる手数料が発生することがなくなり、銀行への貯蓄という概念もなくなる。
すなわち、銀行やクレジット会社はこの世界から葬られる。
これは僕の発想ではなく、<お金の未来>を検索した時に書かれていた内容であり、ある意味ですごく資本主義的な角度での話。
これは部分的には現実化している話であり、恐らくこの方向性はよほどの政治的圧力がかからない限り進行していくと思う。

長々と書いてきた。
これを読んでくれる方が一体何人いるのか、と心配になるくらい。
僕の思い描く理想形は、ビクトリア湖の漁師もシリコンバレーのシステム・エンジニアも中東の石油王も東京のうたうたいも、同じ電子マネーで、同じような賃金で、同じような物価で暮らすこと。
世界全体での労働の結果の総体が電子マネーとして存在し、それが世界全体に還元される仕組み。
そう、あくまでも理想形。
僕がいつも語っている道具論において、<お金>という道具をそういう形に作り替えられたら、その道具を使う側も変わるはず。
政治体制の面からの資本主義解体へのアプローチではなく、道具としての<お金>からの資本主義解体へのアプローチという意味で。

最後になったが、サブタイトルとして書いた<やれやれ、資本主義>という言葉は、オードリー・若林がかつてブログに綴っていた言葉の引用である。
いろんな意味で、秀逸な表現だと思う。