ここ数年、ラーメン店でレアチャーシューを使用している店が急速に増加している。
低温調理して、肉のタンパク質の変性を抑え、形状を保ったまま柔らかくしたチャーシューをレアチャーシューと呼び、それを使っている店を世間では<意識高い系>などと呼ぶ風潮もある。
しかし、僕はこの風潮や姿勢に真っ向から反対である。
その幾つかの理由を述べる。
まず、根本的な理由として、美味くない。
もう一度言う。
レアチャーシューは美味くない。
味覚はセンスだと言うし、好みの問題だとも言う。
これだけ浸透しているレアチャーシューを美味いと感じている(或いは、錯覚している)人も多いのは知っている。
しかし、少なくとも今まで数々のラーメンを食べてきた僕の比較論として、今までに存在してきた様々な形でラーメンに乗せられて来た肉(本物の焼豚、バラ肉の煮豚、肩ロースの煮豚、巻きチャーシュー、徳島ラーメンのバラ肉の煮込み、豚の角煮、炒められた挽肉、肉味噌、炙りチャーシュー、燻製チャーシュー、鶏つくね、鶏チャーシューや牛チャーシュー[謎のネーミングだが]等々)の中で、今流行っているレアチャーシューが秀でているとはとても思えない。
先程僕が<錯覚>と書いたのは、<柔らかい=美味しい>という先入観と偏見が作用しているからではないかと思われる。
本当に自分の味覚として<柔らかい=美味しい>と感じているのであれば、それは味覚が未発達なのだ。
柔らかくて美味しいものもあれば、噛み応えがあって美味しいものもあれば、多層的で不思議な食感で美味しいものもあれば、硬くて美味しいものもある。
<柔らかい=美味しい>信者は、その多様性を味覚として受容する能力がないということだ、と極言してもいい。
しかし、これだけ否定的に書いたけれど、レアチャーシューで美味い店もある。
僕が今までに食べた中では、方南町「蘭鋳」が唯一美味いと思えるレアチャーシューを出す店だ。
今まで書いたのは、味覚についての理由。
もうひとつは、店の姿勢の問題。
その店がレアチャーシューを開発した、もしくは、レアチャーシューを使用している店で修行した店主が新規開店したのならいざ知らず、以前から営業している店でレアチャーシューに替えた店が結構多いことに僕は納得がいかない。
その姿勢を<柔軟性>と呼ぶことは出来るが、それは今までに自分の店で使ってきたチャーシューよりもトレンドのレアチャーシューの方が美味いと判断した場合だけ許されるべきこと。
最初に書いた理由のように、少なくとも僕はレアチャーシューが優れているとは思えない。
レアチャーシューが優れている点があるとすれば、それはただトレンドであるということだけだ。
有名店が使い始め、それが評価されることによって他の店も真似を始める。
それはあらゆる分野で起こることだが、そこに本質は存在しない。
それは端的に<迎合>と呼ぶべき行為でしかない。
<流行を追う>の対義語は、<本質を探る>だと僕は考えていて、流行の中にも<不易>になり得るものは含まれているが、そこには必ず<精査>と<探究>というフィルターが加わらなければならない。
そういう意味で、僕はレアチャーシューが王道になるとは思っていない。
何度食べても、「これが最高!」とは思えないからだ。
僕はラーメンの多様性を否定している訳ではない。
ひとつ忘れてはいけないのは、<進化>と<変化>を混同してはいけないということだ。
レアチャーシューを<進化>だと言う人たちがいる。
しかし、僕はそれを<変化>の分岐のひとつだと認識している。
<進化>というのは、チャーシューの豚臭さを抜く技術が発達することとか、肉を切断する角度を変えることによって肉汁の残り方を変える技術が浸透することとか、改良を加えることによって、今までの不備をなくしたり減らしたりすることだ。
そういう意味で、レアチャーシューというのは別の選択肢の提案に過ぎないのであり、<多様化>という意味での<変化>のひとつだ。
ズボンにおけるパンタロンの登場のようなものだ。
僕はラーメン好きな者のひとりとして、このトレンドが早く過ぎ去ることを心から願っている。
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