just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2018年5月28日(月) 愛猫家が撒いた猫の餌に蟻が群がる
  僕がレアチャーシューを嫌いな幾つかの理由

ここ数年、ラーメン店でレアチャーシューを使用している店が急速に増加している。
低温調理して、肉のタンパク質の変性を抑え、形状を保ったまま柔らかくしたチャーシューをレアチャーシューと呼び、それを使っている店を世間では<意識高い系>などと呼ぶ風潮もある。
しかし、僕はこの風潮や姿勢に真っ向から反対である。
その幾つかの理由を述べる。

まず、根本的な理由として、美味くない。
もう一度言う。
レアチャーシューは美味くない。
味覚はセンスだと言うし、好みの問題だとも言う。
これだけ浸透しているレアチャーシューを美味いと感じている(或いは、錯覚している)人も多いのは知っている。
しかし、少なくとも今まで数々のラーメンを食べてきた僕の比較論として、今までに存在してきた様々な形でラーメンに乗せられて来た肉(本物の焼豚、バラ肉の煮豚、肩ロースの煮豚、巻きチャーシュー、徳島ラーメンのバラ肉の煮込み、豚の角煮、炒められた挽肉、肉味噌、炙りチャーシュー、燻製チャーシュー、鶏つくね、鶏チャーシューや牛チャーシュー[謎のネーミングだが]等々)の中で、今流行っているレアチャーシューが秀でているとはとても思えない。
先程僕が<錯覚>と書いたのは、<柔らかい=美味しい>という先入観と偏見が作用しているからではないかと思われる。
本当に自分の味覚として<柔らかい=美味しい>と感じているのであれば、それは味覚が未発達なのだ。
柔らかくて美味しいものもあれば、噛み応えがあって美味しいものもあれば、多層的で不思議な食感で美味しいものもあれば、硬くて美味しいものもある。
<柔らかい=美味しい>信者は、その多様性を味覚として受容する能力がないということだ、と極言してもいい。
しかし、これだけ否定的に書いたけれど、レアチャーシューで美味い店もある。
僕が今までに食べた中では、方南町「蘭鋳」が唯一美味いと思えるレアチャーシューを出す店だ。

今まで書いたのは、味覚についての理由。
もうひとつは、店の姿勢の問題。
その店がレアチャーシューを開発した、もしくは、レアチャーシューを使用している店で修行した店主が新規開店したのならいざ知らず、以前から営業している店でレアチャーシューに替えた店が結構多いことに僕は納得がいかない。
その姿勢を<柔軟性>と呼ぶことは出来るが、それは今までに自分の店で使ってきたチャーシューよりもトレンドのレアチャーシューの方が美味いと判断した場合だけ許されるべきこと。
最初に書いた理由のように、少なくとも僕はレアチャーシューが優れているとは思えない。
レアチャーシューが優れている点があるとすれば、それはただトレンドであるということだけだ。
有名店が使い始め、それが評価されることによって他の店も真似を始める。
それはあらゆる分野で起こることだが、そこに本質は存在しない。
それは端的に<迎合>と呼ぶべき行為でしかない。
<流行を追う>の対義語は、<本質を探る>だと僕は考えていて、流行の中にも<不易>になり得るものは含まれているが、そこには必ず<精査>と<探究>というフィルターが加わらなければならない。
そういう意味で、僕はレアチャーシューが王道になるとは思っていない。
何度食べても、「これが最高!」とは思えないからだ。

僕はラーメンの多様性を否定している訳ではない。
ひとつ忘れてはいけないのは、<進化>と<変化>を混同してはいけないということだ。
レアチャーシューを<進化>だと言う人たちがいる。
しかし、僕はそれを<変化>の分岐のひとつだと認識している。
<進化>というのは、チャーシューの豚臭さを抜く技術が発達することとか、肉を切断する角度を変えることによって肉汁の残り方を変える技術が浸透することとか、改良を加えることによって、今までの不備をなくしたり減らしたりすることだ。
そういう意味で、レアチャーシューというのは別の選択肢の提案に過ぎないのであり、<多様化>という意味での<変化>のひとつだ。
ズボンにおけるパンタロンの登場のようなものだ。

僕はラーメン好きな者のひとりとして、このトレンドが早く過ぎ去ることを心から願っている。


  2018年4月16日(月) 二転三転して、今も流転
  <野蛮>の定義

言葉の定義というのは、あらかじめ誰かによって定められていて、それに従って使うしかないと考えるのは、言葉というものを理解していない証拠。
言葉の意味も言葉の性能も言葉を巡る環境も、日々変化している。
更には、誤った定義や色褪せた定義がそのまま信じられていたり、ひとつの集団と別の集団では全く別の定義のまま同じ言葉が交わされていたりするのは日常茶飯事。
だから、自分が内容を精確に伝えたい時、少なくとも自分の中で言葉の定義をはっきりさせておかなければいけない。
と同時に、それが相手との共通認識だと思い込んではいけない。
議論が噛み合わなかったり、ちんぷんかんぷんだったりする時、改めて相手を納得させられるような言葉の定義を示さなければいけない。

長い前置きになった。
<野蛮>の定義。
自分の欲望のために他者を犠牲にするのを厭わないこと。

つまり、我々は今も充分に<野蛮>なのである。


  2018年1月28日(日) 今年初のもつ鍋
  「インフルエンザにマスクを推奨していない」という厚生労働省のアホ

この題名の鍵カッコの内容が、1月27日付の産経新聞の記事としてインターネット上に上がっている。
これを読んだ瞬間、「こいつらはどこまでアホで、どこまで無責任なんやろ」と思った。

インフルエンザの予防として、予防接種や手洗い(アルコール消毒を含む)が有効なのはウイルスの性質上当然のこと。
うがいの効果は完全に明らかにされていないけれど、口を漱いだ後で喉のうがいをすることによって多少の効果はあるはず。
そして、前述の記事では、マスクはウイルスを完全に防ぐ効果がないから推奨していないということらしいが、誰もが<完全>を求めている訳ではなく、罹患の可能性の低減を求めていることを彼らは全く理解していないのだろうか。

マスクは、咳やくしゃみをする相手からの直接的な飛沫を防ぐことができる。
喉を保湿することが出来る。
現在以上にマスクの使用者が増えて、顕在化していない(症状を自覚していない)患者も含めてほとんどの人がマスクをするようになったら、咳やくしゃみをする側から感染や、その飛沫からの接触感染を予防できる。
人混みや満員電車での周りの咳やくしゃみに対するストレスの軽減になる(ストレスは免疫低下に繋がる)。
インフルエンザだけではなく、他の感染症の予防にもなるため、その罹患による体力の低下も防げる。
以上のようなことを踏まえると、マスクは間違いなく効果はある。

僕は毎年東京都のインフルエンザ患者数の週ごとの推移グラフを確認している。
年によって多少のばらつきはあるものの、ほぼ同じ時期にピークを迎えている。
それが、1月の中旬から2月の上旬にかけてのこの時期。
そんな時期に「インフルエンザにマスクを推奨していない」と発表すること、あるいは記事にすることに逆効果以外のなんの意味があるのか。
僕はマスクの製造会社を支援するつもりなどサラサラないが、この報道は百害あって一利なしの典型だとしか思えない。
少なくとも、マスク着用のグループとマスクなしのグループにおけるインフルエンザの感染率調査を繰り返し行い、その差が全くないというような結論が出たというのなら分かるが、この曖昧な表現には何か隠された意図があるようにも思えてしまう。

今年は、インフルエンザの患者数が統計を取って以来最大を記録したという。
それは、厚生労働省の予防対策の欠陥を浮き彫りにしていることでもある。
インフルエンザの集団接種の善悪には議論が分かれるところであるというのは知っている。
副作用はあるものの、集団接種は効果があったとも言われている。
だしたら、別の対策が必要なのは当然のこと。
インフルエンザ・ウイルスは定期的に変異するというが、感染者が出現したとしても、感染拡大を予防することは出来るはず。
例えば、会社や学校での手指のアルコール消毒の義務化とか、咳やくしゃみが出る者のマスクの義務化とか。
つまり、今年最大の患者数を記録したことは、長期的に観て、まさに厚生労働省(つまりは国)の失政だとはっきり言える。
その上で、今回の題名のような内容の記事が出ることには、ただただ怒りと軽蔑の念しか沸かない。


  2018年1月5日(金) 正月休み最後の日
  コンパクト・シティーの可能性について

ここ10年以上、祖父母と父の墓のある徳島とライヴハウス・歌小屋の2階のある高知を毎年のように訪れている。
徳島市も高知市も、それぞれ県庁所在地で、人口も人口密度も大差なく、拠点となる空港も鉄道網も高速道路網もほぼ同じ様な条件の街。
観光地としても、阿波踊りとよさこい祭りというイベントがあり、共に海も山もあって食材も豊富な街。
しかし、僕が実際に行ってみて感じるのは、徳島市の中心部が年々寂れていくのに対して、高知市の中心部は賑わいを保っている(或いは、再活性化している)こと。
このふたつの街の違いは何なのかという疑問から、コンパクトシティーの可能性を考えた。

それを考える上で、どんな街が魅力的かというと、それは間違いなく<活気がある>街だと僕は考えている。
その反対がシャッター商店街であり、過疎化した街である。
そういう街では、人は街を歩いていない。
人が街を歩いていないから、商店は流行らない。
商店が流行らないと潰れたり、閉店する店が増える。
不便になるから、街から人が遠のいたり流出したりする。
そして、街が更に寂れていくという悪循環に陥ってしまう。
では、その根本的な原因は何か。

人口はそこそこいるのにシャッター商店街がある街は沢山ある。
そういう街では、人は歩いていないのに車は沢山走っている。
それを<活気がある>とは呼ばない。
それは、街を電車が停まらない駅にしているようなもの。
人が歩き、立ち止まり、休息し、買い物をし、コミュニケーションをとり、そういう経済的に有効であったり、一見無駄に見えるけれど長期的に有益な流れが生まれることを<活気がある>と呼ぶからだ。
つまり、目先の利便性(個人が車を所有し、それを主要な移動手段にすることや、将来的にドローによる宅配システムを完備すること等)は、街から、もっと言うなら人間の暮らしから、活気を奪うことになるというのが僕の考えだ。

さて、話を戻す。
では、徳島市の中心部と高知市の中心部の最も大きな違いは何か。
それぞれの街の行政能力についてはよく知らないのでなんとも言えないが、徳島市になくて高知市にあるものが確実にひとつある。
それは、高知市を縦横に走っている路面電車。

徳島にも高知にも勿論路線バスはある。
しかし、本数にばらつきがあり、複雑な路線を描くバスよりも、明快なルートを地下鉄や路面電車が頻繁に運行しているということは、そこに暮らしている人たちにとっても、そこを訪れる人たちにとっても、利便性が高い街であると言える。
車も同じ利便性のように見えて、それは個人の利便性であって、街の利便性とは全く異なっている。
街を活性化させるの必要なのは、街の利便性の方なのだ。

それが徳島と高知の根本的な違いではないかと僕は思う。
ちなみに、四国で一番大きな街である松山にも路面電車が走っているし、路面電車ではないが、高松には高松琴平電気鉄道(通称ことでん)と呼ばれる私鉄が3路線走っているという面で見ても、徳島が劣っている。
地方都市の公共交通機関を存続させるのは財政面で難しいだろうが、存続させる意味は充分にあるし、それを活かした街の再設計こそ視野に入れるべきだと思う。

今回は県庁所在地について書いた。
しかし、県庁所在地以外の地方都市でも、個人の利便性から街を考えるのではなく、街自体を利便性のいいものにするという考え方こそが、街が生き残り、発展していく道だと思う。
例えば、街の中心部に住宅を集約させるような都市設計をし、そこに商業施設や商店を集中させ、そこから放射状に工場や企業を行政機関や医療機関を配置し、中心部と周辺を路線で結び、放射状に取り囲んだ各施設を円周状に公共交通機関が結ぶような街。
その規模が大きくても小さくても、そこには人の流れが生まれる。
現在、省庁の地方移転の方向が言われているが、地方の大都市ではなく、中小都市に移転させ、実験的な街作りをする価値はあると思う。