寺山修司監督作品。
彼の作品は5、6本観ているが、これが一番好きだし、日本映画の中でも僕の好きな映画ベスト3には入る。
あと2つ挙げろと言われると難しいけど。
いい映画というのは色々な側面があるー上手い俳優、美しい映像、心を打つストトーリー、印象に残る台詞等々。
そのどれかが秀でていれば、それは正当に評価されるべき映画だと言える。
しかし、僕が映画という表現方法に求めるものはそういうものではない。
何度も繰り返して言っている抽象的な言い方だけれど、僕が映画に求めるものは「映画の映画らしさ」。
荒唐無稽な出来事が、映像という形として現実に存在しているという事実(つまり、その場面がフィルムに焼き付けられる瞬間、世界の何処かで現実に存在していたということ)とそれが僕らの魂に落とす影に興味があるのだ。
言い方を変えれば、現実に対して映像の<ゲリラ>が行われている作品にこそ、「映画の映画らしさ」を感じるのだ。
たとえばフェリーニの「81/2」とかゴダールの「パッション」とか。
そして、その「映画の映画らしさ」というものは、ある種詩的でもある。
「田園に死す」は、徹底的に「映画らしい」作品であり、徹底的に詩的である。
最初の場面の寺山修司自身による自作の短歌の朗読から最後の新宿駅前への大転換まで、その詩的表現にまるで隙がない。
観終わった後、まるで椅子取りゲームの最後のひとつの椅子を取られて、自分の居場所もなく呆然と立ち尽くしているような気分にさせられた。それは、現実が幻影に席を譲った瞬間であるとも言える。
更にそれは、「田園に死す」に描かれている世界が、現実の世界とパラレルに存在しているという<幻の実感>だと言い換えてもいい。
こういう映画がどうして圧倒的に少ないのか?
映画に詩を求める者が少数派だということなのか?
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